霞の女



 



 彼女に名はない。涙目と呼ばれている。その鳶色の双眸からことあるごとに涙が流れるせいである。𠮟りつけられた時やからかわれた時だけではない、廊下を行きながらふと雨戸の外の景色を見た時、太陽を見た時、飯を食いながら、客間の掃除をしながら、その目は潤んでいる。しかし面は曇る所のない平常の儘である。当人にもなぜ蓋の緩いのかは分からない。彼女において常世は分からないことばかりである。
 当然の如くに分かっているはずのことが霞のかかったように出てこない。自ずからの返事すら出てこない。己が体の幹を握り損ねているような具合がある。そのくせ、放っておいても細やかなことのひとつひとつが、例えば廊下の埃のあるところだの、後ろにある虫の気配だの、そういうものが目に留まり、気になって仕様がない。故に彼女はひどいうすのろであり、無能な小間使いであったが、椿の屋敷では暮らしていくのに困らなかった。彼らは親身ではないが、残虐でもないためである。暮らしていくのに困ったことがあっただろうか……少し指先が枝先をかすったように思ったが、すぐに霧散した。

 その夜、座敷は騒がしかった。他の女中らもみんな障子の隙間に張り付いていた。
「事情は知っての通り、久方ぶりの馬鹿騒ぎと洒落込もうと思ってね」
 総長の声は静やかなれども雄々しく浪々と響いた。襖の向こうからも熱気がぱんと弾けそうなほど膨らんでいるのが感じ取れる。畳の目すらもささくれそうなほどである。涙目の目尻にまた露が浮かんだ。
「ネクタアルとは何でしょ」「あなた無知ねえ、永代特区の研究所よ」「ああ例の」「最終処分場の」「荒神の息のかかった」「あながちただの都市伝説ともねえ」「あそこにはずいぶん煮え湯を飲まされたもんさ」「ああはあ」「九葉様はお出でになるの?」「政治屋の世界はわからん」「御気の毒様」「あなた、割烹着を直したらすぐ白衣に見えると思います?」「あらあら」「ちょいと、押さないの」
 がやとした廊下のさざなみのような盛り上がりも聞こえぬぐらい座敷は大歓声である。号令がかかったのだ。
 だが瞬間、涙目はふうと足を踏み外して奈落に落ちるような感覚を味わった。常にそこにあるせいであるとも認識したことのなかった霞が、突如として固形となり、かたちを持ち、彼女の脳裏に出没したのである。それは葉巻の香りがした。

「お千代」
 厚くおおきな手が涙目を撫でた。頬には革の感触があった。彼女はソファに寄りかかって御爺の詰将棋を眺めているうちに眠っていたのだった。
 ドアが開き、大人が現れる。グレエのスーツを着ている。なにかを言ったのだがそこは思い出せなかった。御爺の姿、とくに手と、革靴と、そこに連なる足だけが明確で、ほかはほとんど霞だった。
 葉巻の香り。そして皺の寄った大きな手。
 彼女は唐突に思い出していた。暮らしていた。暖炉。暖炉が蘇る。天辺に手が届かない。父母の写真が上にあるのだが届かぬ。トメがたまに掃除のときを狙って声をかければとって見せてくれることがあった。しかし写真のポーズは思い出せるのに顔はわからぬ。ピンボケだ。彼女は自分に親があったことも初めて思い出した。だが親という言葉を引いてずるりと出てくるのはトメの腫れぼったい瞼と一人でソファに沈む御爺の掌だけだった。黒檀の扉は玄関だ。あの黒々として固く重い戸はまるで御爺そのものだった。御爺は外套掛けから帽子とステッキを取ると、あの扉を押し開けながらおそろしいほど頑なになって外へ出て行き、たまに、ほんのたまに戻るときには、あの扉に全ての重圧を押し込めて柔らかなソファの沼に身を沈めるのである。
 男は語気を荒げて御爺を叱ったが、御爺はびくともしなかった。扉に任された錘がゆったりと空気を伝って御爺の身体に舞い戻り、彼を鉛と化していた。
「お千代を連れて行きなさい」
 それしか言わなかった。涙目は男に手を引かれて勝手口から邸宅を出た。ものすごい音がした。お千代は鞄のように抱えられた。そればかりであった。いや違う。彼女は玄関のステンドグラスが火を噴くのを見た。いや勝手口からあの女神の姿は見えないのだが、玄関のあの高さには確かに美しいギヤマンが嵌っており、あの位置なら確かに豊穣の女神は炎の風によって打ち砕かれたのだ。

 突如として彼女は人間に成った。霞は人の姿をしていた。彼女の姿をしていた。泣いているがただ涙汁を垂れ流しているんじゃあない、彼女は煮えていた。女神を吹き飛ばしたあの火柱が今は彼女の腹の中にあった。彼女は涙の源泉を見つけた。いままで彼女はほとんど霞で、炎は燻っていた。彼女はようやく、自分がなぜ、逃げ延びたのか、ここに居るのか、すべて自覚した。短くなかった霞の日々が蘇ると喉奥が苦くなった。なぜ。なぜ私はこれほどまでに涙を流しながら、その在り処に気が付かなかったのだろうか?
 襖は弾け飛ばん勢いで開かれ、女中らはきゃあきゃあと散り散りになり、組員が雪崩出し勢い余って庭に落下する騒ぎの中、彼女はうずくまったまま研ぎ澄まされていた。鞘の壊れた匕首のようだった。渦中、彼女は一度も人の足に当たらずに、座敷の騒ぎを潜り受けると、どっしりと構えた顧問の前へ額を擦り付けて言った。
「どうか、私もお連れになっていただけぬでしょうか」
 如何にとも構わぬのです。いっそ散れども構わぬのです。
 たしかに私の人生は荒神に殺されたのだから。




*涙目
 小間使いの女。気聡いが只の人間。




 




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